Б.リーフシツ『一個半眼の射手』
第七章 我々と西欧
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 ほとんどいつもスキャンダルに終わる我々の夕べの試みをよく知っていた警察は、起こりうる無秩序の責任を引き受けてくれる立派な教授の保証状なしには未来主義者に出演を許さなかったので、講演の作成に取りかかる前に、公開討論の議長を探し出す手配をすることが不可欠であった。
 このような保証人を見つけることは簡単ではなかった。なぜなら、未来派人とアカデミックな学問への老練な奉仕者との間の盛んな「いちゃつき」の短い一時期のあと、月桂冠を被った老人たちは、未来主義者との交流は――あまりに危険な若返りの手段であり、また、我々が彼らに提供しえた唯一のもの、すなわち全ロシア的恥辱を未来主義者たちと分け合うことに何の意味もないということをすばやく確信したからだ。
 このような婚礼用将軍のやる気をなくさせないためには、あらゆる術策に頼らなければならなかった。交渉のために彼のところへ現れるときには、ボタン穴から木さじを引っ張り出してどこか遠くへ押し込み、自身の頬から、水彩絵の具で愛をこめて描きこまれた馬や犬を洗い落とさなければならなかった、換言すれば、どんなスキャンダルについても一度も耳にしたことがないお利口さんのふりをしなければならなかったということだ。
 それにもかかわらず、回を重ねるごとにこれはだんだん困難になっていった。一度は我々の頼みを快諾してくれたボードアン・ド・クルトネでさえ、結局は、自分の思いやりが自分に何の名誉も利益ももたらさないという結論に達した。私の外見や物腰は、私が未来派陣営に所属していることを少しも洩らさなかったので、その当時、まさに私に、老人たちを甘言で釣るという簡単ではない仕事が委ねられたのである。私は恐怖のためではなく、良心のためにこの仕事を遂行していたのだが、しかし、紺屋の白袴である以上、自分自身の夕べが近づいてきても、私は議長を得られないままであった。これは次のように起こった。
 私の講義の五日前に、テニシェフカで、シクロフスキーの「事物の復活について」とピャストの「過去における未来について」という二つの報告が行われる「新言語の夕べ」が開催されることが決まった。あらゆる文学的潮流の代表者たちが興味を持っていたこの公開討論の議長としては、С.А.ヴェンゲーロフを招くことが決定されたのだった。
 私がネクタイの代わりに身に着けていた黒いジャボが、私の信用を落としうる唯一のものだったので、私はそれを家に置いて、ザーガラドニイ大通りの高名な文学史家のところへと出かけた。彼は私に親切に接してくれた、あるいは、親切すぎたくらいだった――まるで、フランス共和国の大統領が、どこかアフリカの民族の首長に接するかのようであった。
 ヴェンゲーロフは、別世界からの使者でも見るかのように露骨に私を観察していたので、私はすでに、頬に絵を描いてこなかったことに悔恨を抱き始めた。それは、彼を唖然とさせるためではなく、自身の自立を強調したいというしごくもっともな願いからであった。
 たった今食べたばかりの夕食の呼気を私に吹きかけながら、彼は私ににじり寄ってきた。彼のフロックコートの肩と襟を覆っていた大量のふけが、私に本能的な嫌悪の身震いを起こさせた。よくは分からないが、おそらくは、まさにこのふけが、彼がプーシキンの原稿の紙の上に落としたふけよりも重程度に、彼の外見のこの本質的なディティールを教師の全体像から切り離すことのできない生徒たちに、畏敬にみちた恐怖を引き起こしたのではないだろうか? 我々は、なにしろ、まったく偶然的な特性に、内在的な性質を賦与することがたびたびあったのだから。たとえば、数学教師の制服の広げられた裾からほとばしり出る秘薬の香りを幾何学の理解にはめ込み、あるいは、中世にglandula pinealis 松果体に魂の中心を見ていたように、ソログープのそれより二倍も大きく、床屋によってうやうやしくも迂回されるいぼに、支配人的な権力の充実を集中させていたのだった。
 私は法学部の出で、文学部出身ではなく、それもまたペテルブルクの大学ではなく、キエフの大学に通っていた。それゆえではないだろうか、コーリャ・ブルリュークにも、ピャストにも捉えがたい自由をもって、私がaccidentalia 偶然的要素をessentialia 本質的要素から――ふけのある恐ろしいつむじ毛を、ヴェンゲーロフが数十年にわたって自らの黒海のあごひげでおおっていた宝物から切り離していたのは? 
 そうした宝は、平らなガラスケースの向こうに横たわっている――実を言うと、それらではなくて、それらの写真なのだが――、プーシキンの詩と散文の草稿が、その所有者から分けられているのは、ガラスによってではなく――ああ、違うのだ!――二つの惑星系の住人のあいだにあると考えうる限りの、絶対的な異質性の爆破されない諸層によってであった。それらの宝は、その宝の愛し方がそれ自体としてそれらに対するひどい侮辱のように私には思われるような人間の捕虜になっていて、プーシキンを「現代の汽船」から放り出した人々の仲間である私には、解放者――ルスランの役割はまったくふさわしくなかったにもかかわらず、私は自身の訪問の目的を忘れて、不意に一大スピーチをしてしまい、その失礼さはただ率直さと肩を並べていた。  ヴェンゲーロフはあっけにとられた。おそらく、その傷つけがたさを自身の存在よりも疑っていなかったような側面から攻撃を受けることになったのは、生涯で初めてのことだっただろう。
 私の大声に引き寄せられて、隣の部屋で身を入れて働いていたはずの「助手」たちが戸口に群れ集まってきた。彼らの微笑みと断続的な発言の中には、皮肉はなく、教師に対する尊敬の念によってのみ抑えられていた賛同が私には感じられたので、この若者たちの呼び交わす声によって励まされた私は、結局歯止めが効かなくなったのだ。
 私は話を止めたときに、自分に委ねられた依頼を思い出して、話をそちらに移そうとしたのだが、時すでに遅しであった。ヴェンゲーロフが拒絶の返事をすることに、なんの理由も必要なかった。
 ふいに生じた関係のトーンを調律しなおすことは、より熟達した外交官でも引き受けなかっただろうから、私は固執することはしなかった。それにもかかわらず、ヴェンゲーロフが、私に別れの挨拶をしながら、彼が監修している「ロシア作家辞典」のための情報を書き込むよう頼んでアンケート用紙を私に無理に受け取らせたときに、私は、主人の愛想のよさではないにしろ、学問従事者の厳密性を評価したのである。
 これはほとんど嘲弄のように響いた。というのも、私の成果物は、未来派の文集に散らばっていた作品を除いては、当時はただ一つ『マルシュアスの笛』のみに帰着していたので、「重々しい百科事典の衣服」を着用することは私にとってはまだ時期尚早なことだったからである。しかし、ヴェンゲーロフに返すまいと決心しながらも、私は用紙を受け取り、ザーガラドヌイ大通りからまっすぐに、カデツカヤ通りのボードアン・ド・クルトネのもとへと出発したのだった。
 ヴェンゲーロフのところで起こったすべてのことを、勝利のように(どんな? 何に対する?――そのときこうした問いに答えることは困難だっただろう)感じながら、私は、大学の建物に住んでいるのか、どこか近くに住んいるのかどちらともつかないボードアンの研究室へと入った。
 この「赤」教授――彼は学生たちのあいだではこのあだ名で通っていた――の苗字は、このときまで一度も彼に会ったことのなかった私がこのときから彼に結び付けるようになった連想以外にも、あらゆる連想を私に起こさせた。私は想像の中で、子供向けの「Mon journal」誌のカラーイラストのフランス騎士が記憶に残っていたようにではないにしろ、少なくとも、現代のロシュフォールかデルレードかのように、自身の先祖の中にコンスタンティノープルの皇帝を三人有する、この十字軍戦士の子孫を描き出した。彼のロシア語への忠誠は、クレムリンの歯状装飾の上のナポレオンのフロックコートのように、歴史の歪んだ面のように私には思われた。しかし、この二つの現象の間には、私の考え違いでなければ、因果関係が存在したのである。
 きちんとした老人は、戦争の時までキエフでセマデーニやコマロフスカヤ伯爵夫人のカフェを埋め尽くしていた、破産したポーランド地主たちのうちの一人の普遍的な容貌を持ち、そうした自身の外貌によって、言語イメージが独立した生命として生きているということを、さらにもう一度私に信じさせたのだった。
 さらに、私をひどく驚かせたのは、ダーリの事業の後継者のなかにあったガリツィヤ=ウクライナ方言だった。そのとき私の頭に浮かんだのは、香りのよい物質の大半の中核は、その一般に用いられる溶液とはまったく別の香りを有するということである。古ロシア語が、もし今それが響いたとしたら、調音的関係において、北方方言よりも南方方言により近いということにならないなどと、誰が保証するだろうか?
 単純にも、私は、ボードアンを、我々の語根の実験的、化学的分析に没頭し、中から一分ごとにウクライナの発音よりも全然予期されなかったような何かが噴出しえたフラスコや蒸留器の上にかがみこんでいるロシアのリトレとして思い浮かべた。私は、フレーブニコフの調査とボードアンの仕事とをどうやっても比較することなどできなかったが、ダーリの辞書の編集者を眺めるときに、敬意をこもった感情がないわけではなかった。
 あまり無理をせずとも、私は、「新言語の夕べ」の議長、そしてついでに「マリネッティに対する我々の返答」がそれによって完遂されるはずである公開討論の議長も務めてくれるよう文献学者を説き伏せるために必要だったまさにそのトーンを、自分の声から引き出すことに成功した。ボードアンは、どんなスキャンダルも起こらないことと、礼儀を乱すような試みが少しでもあったら前もって知らせることを私に復唱させると、彼はただちにホールを去った。この脅しは私をまったく不安にさせなかった。なにしろ我々にとって重要だったのは、彼の名前を特別市長のために手に入れることであって、残りのことは我々にとっては大した意味を持たなかったのだ。
 ボードアン・ド・クルトネは約束を守った。舞台上で、自分の隣のある未来主義者が司祭の法衣から縫い直された金襴のブラウスを着ており、もう一人の未来主義者が――ネクタイを、それが美しく見えるよう定められているところとはかけ離れた場所にひっかけていることに気付いたとき、彼は即座に立ち上がって、大声で次のように述べた。
「私は思い違いをしていたようです。私のところに送り込まれたのは、あらゆる礼儀が遵守されるだろうと私に信じさせてくれた、まったく礼儀正しい若者(憤慨したジェスチャーで私のほうを示した)だったのですよ。しかし、見たところ、無秩序の中に来てしまったようです。私は自分の名前でこのような喜劇をカムフラージュすることはお断りです」
 彼は万雷の拍手に送られて去って行ったが、彼の席はクリビンが埋めて、クリビンは公開討論を首尾よく最後まで進行した。
 私とルリエーは、ヴェンゲーロフやボードアンのような「将軍」を招く可能性を捨てて、望むと望まざるとにかかわらず、感じのよいニコライ・イワーノヴィチを我々の夕べの議長とすることで我慢しなければならなくなった。
 クリビンは、喜んでこの名誉ある使命を引き受けてくれたが、我々の司祭としての彼の演説は、私をあまり満足させなかった。ずっと前から彼が繰り返すようになったことについて話すことはせずに、際限なく、馬の走りを鈴のスプーンに体現するやり方に回帰しながら、彼の結論的な言葉は、大抵、どんな主張の鋭さもいい加減なものにしてしまうのだった。しかし、他の議長を見つけることは大変困難で、さらには、テニシェフカでの「スキャンダル」まであと五日という二月三日になって印刷を許された我々のポスターとプログラム上に、ボードアン・ド・クルトネの名前が記入されていただけに、それはなおさら困難であった。
 マリネッティは、「我々の返答」を待たずに、モスクワへと発った。モスクワで、彼は、ある新聞が洒落を言ったように、ペテルブルクのイタリア植民地の代表から、西欧の未来主義に対して提起された弾劾について知ったはずである。
 とはいえ、我々の夕べに出席することがマリネッティに多くのことをもたらすということは、おそらくなかっただろう。私の講演は、クリビンのところでの彼との話し合いや、その後の会合のときに私が話したテーゼの発展に他ならなかったから。
 私は、自らを芸術のあらゆる領域における新しい規範として認めているイタリア未来派と、どんな肯定的な公式化も懸命に回避しているロシア未来派との間にある差異から始めて、イタリアに未来主義を発生させ、はっきりと表れた民族主義的性格をそれに与えた原因の分析へと話を移した。私は、西欧における我々の同名者の、まだ広く大衆には知られていない基本的なマニフェストを詳細に検討し、「マリネッティ主義者」たちの綱領のテーゼに、未来派人たちの具体的な成果を対置させた。
 しかし、未来派として先に生まれたのはどちらかということをめぐる争いは、私の目には、西と東の総計的な清算という側面からのみ解決するように思えたので、私は、我々の三つのマニフェストによって標識を立てられた限界まで問いを拡大すること、つまり、丸一世紀にわたって――世界の美的知覚の二つのシステムの間に境界を引くことが不可欠であるとみなした。我々の舌足らずな宣言のなかでは言い落とされていたすべてのことを、私は、事実を引くことでテーゼを補強しながら、明らかにしようとしたのだった。自らの正しさを深く確信していた私は、西欧における素材感覚の欠如のなかに、迫りくるヨーロッパ芸術の危機の最も肝要な兆候のうちの一つを認めていたのである。
「ロシアでは、我々、芸術に携わる人々より重程度に自らをアジア人として自覚しているものはおそらく誰もいないでしょう。我々にとってロシアは――東の本質的な部分なのです」私は自分の声を聞き分けられないまま、一時間半の講演の結末に近づいていった。
「我々が東に所属しているという証拠を認めるのは、外的な発露のなかにではありません。つまり、ロシアのイコンとペルシャの細密画、ロシアのルボークと中国のそれ、ロシアのステンドグラスと東のモザイク、あるいはロシアのチャシュトゥシカと日本の短歌とをつなぐ結びつきのなかにではないのです。もちろん、これらはすべて偶然的なことではありませんが、それほど重要なことではないのです。
 はるかに本質的なのは別のことです。すなわち、我々の素材へのひそかな親密さ、我々の素材への特別な感覚、素材と創作者の間の中間の鎖を排除するという我々の生来の変身能力――換言すれば、ヨーロッパ人たちが正確に鋭く我々の内に発見したすべてのもの、彼らにとっては永遠に入手不能なままにとどまるすべてのものなのです。
 さて、我々は、素材が世界的物質と命名されている状態においてさえ、素材を感じ取ることができるのであって、それゆえに、我々が――唯一我々だけが――宇宙的原理にもとづいて我々の芸術を作り出すことができ、現に作っているのです。我々の「今日」の瞬間的な形を通して、我々の「私」のつかの間の現れを通して、我々はあらゆる芸術の起源――宇宙へと向かっていくのです。ヤクーロフにとって、絵画のあらゆる課題が、日輪の回転として、温かさと冷たさの関係として与えられ、解決されているということと同じように、たとえば、私にとっては、言葉の希薄性の三つの状態は、偶然的で相対的な類似ではなくて、宇宙の三分法の法則に適った反映なのです。
 東の宇宙的世界観がいまだ最終的な具体化に富んでいないとすれば、この原因はなによりもまず――ヨーロッパの催眠状態にあるのでしょう。我々は、ヨーロッパに続く列の最後尾を行くことに慣れてしまっています。我々の目が開くのは、東を探求するヨーロッパが我々を我々自身のところに導いていくという悲劇的な瞬間においてのみでしょう。
 このまことに恥辱的な活動が行われたのは、初めてのことではありません。ぼんやりとして怠惰な見かけをした我々から盗みをはたらきながら、我々に、ヨーロッパ芸術の主導権を公認する形で、我々自身の所有物を税金を課した状態で買うようにすすめているのも、初めてのことではないのです。
 我々はいつか目覚めるのでしょうか?
 自身をいつか――はにかむことなく、誇りに満ちて――アジア人だと認めるのでしょうか?
 なぜなら、東に起源を持つことを自覚するだけで、自身をアジア的と認めるだけで、ロシアの芸術は新しい局面に入り、恥辱的で馬鹿げたヨーロッパのくびき――我々がずっと以前にしのいでしまったヨーロッパの――を振り落とすようになるのですから」
 私の最後の呼びかけを迎えた聴衆たちの拍手は、皮肉な性格を帯びていなかったにもかかわらず、私にあまり喜ばしい印象を呼び起こさなかった。
 私が上記でそれについて語り、私にとっては「未来派の契約の箱」であった文化の形而上学が、私の聴衆の関心をまったくと言っていいほど引き起こさなかったことを私は理解していた。ロシア芸術の運命は、彼らを無関心のままに残した。もし何かが彼らの注目を引き寄せたとすれば、それはただ、私がマリネッティを追いかけるように放ったつまらぬことのなかに無意識的に生じた排外主義的な模様だけであっただろう。
 私が心から自分のことをノンポリとみなしていたというまさにこのことによって、私は、覗き込むつもりなどなかった深みから私によって引き上げられてきた民族主義的なさざ波に当惑した。私を当惑させたのは、自身に固有の色彩というよりはむしろ、私の考えでは、「純粋」芸術の落ち着いた顔を反射するはずであった鏡の表面の濁りだった。
 この痙攣的な震えは、私にとっては、マリネッティがことごとに言及していた新しいsensibilità 感受性と同じく敵対的なものであった。イタリアの未来主義者たちも、我々の呼びかけから「形而上学的な」核を取り除いてその外殻だけを残した者たちも、自分たちが何を求めているのかしっかり分かっていた。私一人が、自身の背後で大きくなっていた舞台装置に気づかずに、すでに左右に開いた幕のひだに足をもつれさせ、そして自分自身の声のずれによってのみ、私を取り巻く環境の変化に気づいたのであった。

底本:Лившиц Б. Полутораглазый стрелец: Стихотворения. Переводы. Воспоминания. Л., 1989.