Б.リーフシツ『一個半眼の射手』
第七章 我々と西欧
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 一月の終わりに、外国との文通を常日頃続けていたクリビンが、マリネッティがロシアに来ることを私に伝えた。彼はモスクワを訪れ、それからペテルブルクを訪れるとのことだった。パリの協会「Les Grandes Conférences」の主要な委員として両首都での彼の講演を催したタステヴェンと彼とのあいだでそのように取り決められていたのだ。
 モスクワには、このとき、未来主義者たちは誰もいなかった。ダヴィド・ブルリューク、カメンスキー、マヤコフスキーは南方で巡業をしていたのだ。これは、セヴェリャーニンの参加も受け入れ、彼とマヤコフスキーとの仲違いに終わったあの有名な巡業であった。
 マリネッティの到着する約三日前に、モスクワのある新聞に、ラリオーノフのインタビュー記事が載った。光線主義のリーダーは、未来派のリーダーに腐った卵を浴びせるべきだ、彼は自分で宣言した原理に反しているのだから、と主張していた。
 マレーヴィチとシェルシェネーヴィチは来賓を擁護するために立ち上がり、マレーヴィチはラリオーノフの闘争的な考えに急いで不賛意を表明し、またシェルシェネーヴィチは不運な現地報告記事にとびついて、編集部に手紙の洪水を浴びせた。ロシア未来派の唯一の代表として駅でマリネッティを迎えたのもまさに彼だった。なぜなら、タステヴェンも、すべての祝典の主催者たちから当時すでに悲劇的な瞬間に思い出されていたアレクセイ・トルストイも、未来派人としてはとても通用しなかったからだ。
 こうしたことについて、私たちペテルブルクの人びとは、マリネッティの来訪をめぐって相変わらずの馬鹿騒ぎを必ず引き起こしていたモスクワの新聞を読んですっかり知っていた。スヴォーリンの『ノーヴィ』紙は、彼に特別な注意を払い、対談記事、ポートレート、論文、講義についての詳報を毎日掲載した。
 しかし、ほとんど例外なくすべての記者が、マリネッティの情熱と雄弁家の能力に魅了され、彼の機知と論争の才能を褒めちぎり、彼の名人とも言うべき演説術を十分に評価しながら、イタリア未来主義のリーダーのこれらの個人的な素質と、彼の布教する理論とを分けたのだった。新聞は、彼の講義の内容を詳しく述べつつも、美術館と図書館の破壊というマリネッティの訴えや、彼の愛国主義的な叫びや、彼の女性嫌悪や、他の恐ろしいものに対して評論を加えることはしないでおいた。
 この一年前に、狂人のバラショーフがトレチャコフでレーピンの絵を切りつけたとき、三文文士たちは、遠慮なくブルリューク兄弟に責任をなすりつけ、「左派」芸術の主唱者が恐ろしい事件の真犯人、その事件の真の首謀者なのだと明確に当てこすった。  しかし、よその財産についての話であったからか、あるいはマリネッティの凶暴なスローガンを額面通りに受け取ることが困難であったからか、それとも、もし私たちの同胞であったならずっと前に拘束服を着せられていたであろう来賓に対して、なんらかの礼儀を守るべきであったからなのか、ウンベルト・ボッチョーニがミケランジェロの「モーセ」に鉄の棒を勢いよく振り上げても、今では誰もミケランジェロの擁護に立とうとは思わなかった。  まったくあべこべだった。我々、ロシア未来主義者たちは、自分の顔に色を塗ることもなく、縞のジャケットで着飾ることもなく、乱痴気騒ぎをしでかすこともない、魅力あるマリネッティを手本としさえしたのだから。
 ああ、これは確かにこの通りだったのだ。イタリア未来派の英雄的な時代はゆきてかえらぬ過去となった。マリネッティがことあるごとに回想していたミラノとローマでの懐古趣味者との「血塗られた」戦いは、すでに叙事詩になっていた。かくも速く錆びついてしまった鎧に失われた輝きを取り戻すという願望を抱きながら、彼は行くことを決心したのだった。

 ロシアへ、バルバロイのもとへ、恐れと涙を連れて。
 僕は出発し――そして見つけた、やむことのない愛情を……

 月の光を憎悪し、女性嫌悪者で、美術館の破壊者で、俗物根性の手厳しい反対者である彼は、花束と、たっぷり香水をかけられた婦人のメモを贈られ、画廊に運ばれ、祝賀晩餐会で歓迎された……。スキャンダルの唯一の可能性――彼は音楽院での講義のあとで文学・芸術サークルに行き、そこには偶然ラリオーノフがいたのだが――は、衝突の危険を秘めているものすべてを始まった会談から急いで取り除いた数人の平和愛好家の干渉によってほとんど即座に阻止された。
 モスクワでは、マリネッティはこんな風で、ロシアの未来主義者の誰にも会わなかった。これはまことに当惑もので、イタリアの客人が未来派とは何の関係もない人々の仲間になってしまったことに気がついた取材記者さえ、この当惑は避けて通らずにはいかなかった。マリネッティは、音楽と神聖な踊りを用いて新宗教を布教しようとモスクワにやってきたのに気がつくとレストラン・マクシムにいるインド人によくあるような歴史を繰り返したのだと、嫌味を言うものさえいた。
 「懐古趣味者」たち、若い伊達男たち、彼自身の表現によれば「自分が正しいときにさえ間違っている」あの老人たちに囲まれて、マリネッティは、終わりごろには気が滅入ってしまった。自身の最後の講義では、彼は、大衆が拍手していたのは彼の理念に対してではなくて、彼の熱情に対してであったと悔しそうに述べたのだ。その上、彼がいやおうなく欠席裁判を強いられたロシア未来派の不在が、西欧の未来主義のリーダーを、軍隊のいない司令官という滑稽な立場に追い込んだのだ。彼はこれとは違った応対を期待してペテルブルクに急行した。モスクワの成功は実に彼の気分を害したのであったのだ。

底本:Лившиц Б. Полутораглазый стрелец: Стихотворения. Переводы. Воспоминания. Л., 1989.