Б.リーフシツ『一個半眼の射手』
第七章 我々と西欧
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 私の意識の中にだんだんくっきりと現れてきたミラノの生活様式のなかには、明らかに、若干の田舎臭さが残っており、それはマリネッティ自身の性格にも無縁のものではないのだ――私と彼との先の会談から自然に出てきた結論は、このようなものであった。  実際、田舎者の無邪気さによってでなければ、何によって、壇上に上がったマリネッティが絵画や彫刻や音楽についての講義をそこから始めたテーゼのような、退屈で低級なことを説明することができただろう?
 あらゆる種類の模倣に軽蔑的な態度を示すべきであり、どんな形で現れようとも独自性を褒めたたえるべきだと言明すること、「調和」と「よい趣味」という言葉の圧政に刃向うこと、芸術批評は無益であり有害でさえあり、狂人の称号は名誉あるものとみなすべきだということを主張すること――これらは、一九一四年には許されない無邪気さであった。こうしたことについては、もはや赤面せずには語れなかった。イタリア未来主義者が、とりわけ造形芸術において他の分野よりも早く成熟に達しただけに、これはなおさら不必要なことのように思われた。ボッチョーニも、カッラも、ルッソロも、バッラも、セヴェリーニも、一九一〇年にはすでに造形的ダイナミズムの理論を提起しており、かつての子供じみたスローガンからはずっと遠くへと前進していたのだ。
 マリネッティは、新しい絵画的世界観の原則を述べながら、私にとってのみその意味が明らかな不安げな眼差しで、彼に熱烈にすぎる身振りをやめさせた安全ピンを時おり眺めていた。 「物体を空間のある一点に固定する代わりに、未来主義者たちは」彼は手で空を大きく切り裂いて、それからはっとして視線を腰の下へと下げた。「運動している状態の物体を描き出そうとしているのです。運動の解釈への最初の表面的なアプローチは、「走っている馬は四本足ではなく、二十本足だ」という有名な公式として現れましたが、このアプローチは、現代絵画の前に立ちはだかる動力学的な課題のより広い理解へと替わりました」
運動状態にある形(相対的な運動)は、もはやイタリアの未来主義者たちを満足させません。彼らは、形の運動(絶対的な運動)を描写しようとしているのですから。なぜそうするかというと、運動の中にある身体の変形のみが、シルエット主義の克服をもたらし、真のダイナミズムについて語ることを可能にするからです」
「この理論と緊密に結びついているものに、ボッチョーニが物的先験論と呼ぶ独自の概念があるのである。ボッチョーニは、すべての物体が自らの力線によって無限なものに向けられており、力線の長さは画家の直観によってのみ測られるということを発見しました。真の芸術のふところに絵画を返すためには」再びエネルギッシュなジェスチャーをして、それに続いてきまり悪そうな視線を傾斜机に向けた。「画家は、物的身体を、それら、その身体が我々の心に呼び起こすリズムの始まりあるいは継続として、キャンバスに描き出さなければならないのです。我々が再現するのは、音ではなく、それらの震える間隔であって、我々が関心を持つのは、病気ではなく、その病状と後遺症なのです……」
 物体から空間へと向けられた、力線のかたちをしたこの人差し指を、私は気に入らなかった。私にとって、それが意味していたのは、私の知覚への不信と、リズムを造形される物の領域に詰め込むことができず、最小の抵抗に向かって動く空間的に限られた形を、無限への道のどこかでこの形と折り合いをつけて、リズム化することもできない画家の無力だった。  一つ、私にとって疑うべからざることがあった。すなわち、ラリオーノフがそれによってイタリア人たちを「上回ろうと」していた光線主義は、ボッチョーニのチョッキのポケットにまるごと収まってしまったということだ。
 といっても、これ一つだけではない。もし未来主義が、世界の新しい見方を表現する試みとしてだけでなく、新しい美学の理論体系の試みとして、芸術の歴史に組み込まれる運命なのだとしたら、未来主義がこのことに恩義を感じるのはボッチョーニに対してだということについても、私は同じように思った。なぜなら、彼の定式化においてのみ、未来主義は何か体系のようなものを獲得したからだ。
 このことに気がついているらしいマリネッティは、自身の友人の言説にできるだけ近づいたままでいようと努力していた。
 彫刻家としてのボッチョーニは、画家としてのボッチョーニよりもはるかに注目に値する人物であった。彼の象の孤独のなかには、何かフレーブニコフ的なものがあった。彼の作品のなかでは、理論が実践と一体になっていて、理論が純粋に口先だけのテーゼとして実践に先んじることを恐れて、それが先回りすることはなかった。彼のテーゼのすべてが、すでに彼の作品に体現されていた。
 身振りを線として描写することへの希求だけでなく、画家が普段使用する素材の均質さもまた、ボッチョーニの考えでは、彫刻を静力学の芸術に変えてしまったのだった。したがって、彫刻に様々な素材を導入すること、まさにそれ自体が、彫刻を停頓状態から脱せしめ、彫刻の中に有名なダイナミズムをもたらすことになるのである。
 しかし、彫刻の静性がただ素材の多様さによってのみ乗り越えられるとみなすことは誤りであったかもしれない。より重要なのは――形の解釈なのだ。彫刻家は物体の外形を形成する体積の表面を抽象的に再現することを志向しなければならないのであって、この形の盲従的なコピーを目指すのではない。絵画においてと同じように、ここで重大な補助的な手法となるのは、力線で、それは、空間のなかで運動の時間的長さを表現するという使命を持った形の可能性と方向を示しているのである。
 先行する、形の伝統的な解釈の基本的な欠陥は、表現された物体のそれを取り巻く環境からの分離、物体の空間における孤立であった。それゆえに、ボッチョーニが結論づけたところでは、どんな代償を払ってでも、反対の効果、つまり、対象と環境の融合を得ることが不可欠であるということだ。天才メダルド・ロッソは、この唯一正しい道の不可避性をすでに理解していた。しかし、ロッソは、物体とその周囲の環境をつなぐ、目に見えない結びつきを伝えようとしながらも、これを最後までやり遂げることはできなかった。純粋に絵画的な観点から彫刻に接近しようとした彼の彫刻、彼の独特の高浮き彫り、浅浮き彫りは、印象主義的手法のあらゆる長所と欠点によって特徴づけられていた。彼の一彫りは――まさにルノワールの一塗りと同じだった。
 メダルド・ロッソとは異なり、イタリア未来主義者たちは、物体と環境の求むべき融合が表面の相互浸透によってのみ達成されうるということを理解していた。モーターの車輪は機械工の脇の下から現れ、机の平面は――本を読んでいる人間の頭を横切り、そして本そのものは――ページが半円状になって腹に突き刺さっているべきなのだ。伝統的な線に閉じ込められた形を完全に忘れ去り、その代わりに、力線によってもたらされた傾向と空間における造形的傾向の中心として形を与えることが不可欠であった。
 ここでは、一見克服しがたく思える甚だ重大な困難が生じているのである。
 死んだ、静力学の線が廃止されることは――素晴らしい!
 彫刻の総体の周辺とはどうするべきだろうか? 物体に、それを取り囲む環境が際限なく加わることをどこかで止めなければならないのだろうか? 銀河を夜警の頭蓋の中に組み入れるべきではないのか!
 ボッチョーニは、彫刻的塊の周辺を、その突出部を中心に向かって段階的に明るくなるように黒や灰色で塗ることによって、すっかり消滅させて、難問を一刀両断に解決した。彼は、補助的な明暗を作りだし、そのために絵画の手法に着手したのだ。このような試みを恐れる必要はまったくない。ある一つの芸術の限界を超えることを恐れることより馬鹿げたことがあるだろうか! 彼が、自身の最初のマニフェストにおいて、絵画も、彫刻も、音楽も、詩も存在しない、真に実在しているのは創造する行為だけなのである、と表明したことは、無駄ではないのだ。
 同じマニフェストの中で、ボッチョーニは、機械主義への盲目的な崇拝にしたがって、閉まったり開いたりするバルブが動物のまぶたよりもはるかに素晴らしく新しいリズムを生むと主張しているが、マリネッティの語り口において私に明らかになったのは、こうした動いているピストン、歯車つき車輪、回転するプロペラのすべてがボッチョーニを引きつけているのは、超工業的な現代のシンボルとしてではなく、彫刻家である未来主義者がその利用を拒否する権利を持たない彫塑の要素としてなのだということであった。
 その反対に、マリネッティが報告の第二部で取り上げた「騒音芸術」においては、無邪気なウルバニズムが、自身のみすぼらしさの全貌をさらけ出していた。
「現代人、とりわけ都会人は」マリネッティは我々に断言した。「ワーグナーを除くクラシック音楽家が与えてくれるようなものよりもより複雑なポリフォニー、より多様な音色、響きの多彩さを探し求めているのです。自身の不十分な力と単調さによる綺麗な音は、もはや我々になんの興奮も呼び起こしません。我々が必要とするのは不協和音、あるいは、少なくとも、産業主義の成長と並行して起こっている音楽の革命を完遂する使命を持った純粋な騒音への移行としての騒音の響きなのです。
 あらゆる騒音がある一定の調を有していて、ときどきは不定期な振動の総体よりも優勢な和音としてさえ現れるので、このことが、騒音の高さを変化させつつも、その音色を維持しながら、芸術がその振動を再現する可能性を我々に与えるのです。このような再現は、決して路面電車の音や、モーターの喘ぎや、飛行機のぶーんという音などの単なる模倣であるはずがなく、新しい種類の芸術の発明者であるルイジ・ルッソロが六つのカテゴリーに分けさえした、これらの騒音の理想的な組み合わせなのです」
 よく知られているように、ルッソロは音楽家であったことは一度もなかった。おそらく、まさにこうした事情が、あの未来主義音楽の王、ルッソロが寛大にも自身の発見を譲渡してあげたバリッラ・プラテッラよりもより「未来主義的である」ことを彼に許したのだろう。プラテッラは、音楽は「大衆の魂を、大規模な工場や、列車や、大西洋横断汽船や、戦艦や、自動車などの魂を」表現しなければならないと話し始めた最初の人物なのだが、それにもかかわらず、自身は非現実的な要望のその先へは行けなかったし、半音階主義法を異名同音程に取り替えるという要求で満足したのである。
 半音階を異名同音程の連続で置換することは、どんな部分にまでも音を細分できるという無限の可能性を持っていて、本質的に音楽を同じ「騒音芸術」へと導いて行ったのだが、しかしそれはいわば内側からであった。我々の聴覚において、そこを越えたら音が騒音に変わることが不可避であるという限界を越えていったのである。
 バリッラ・プラテッラによって音楽の伝統にもたらされた大変動は、したがって、ルッソロの騒音的実験よりも深いものだということが分かった。おそらく、このために彼は、私の隣に座って、マリネッティが話をイタリア未来主義者の音楽理論へと移したときから椅子の上で神経質そうにそわそわしはじめたアルトゥール・ルリエーの激しい怒りを引き起こしたのだろう。
 もしかすると、これは、私が再三言及してきたあのことのせい――音楽への私の無学のせい――だとするべきなのかもしれないが、もしルリエーの「テーゼ」が、まだ一九一一年というときに、プラテッラのマニフェストのなかに、私にとっては私の戦友の口から聞かされるはめになったことよりもはるかに首尾一貫した形で発表されていたということならば、私はルリエーの革新がどういった点にあるのかまるで理解できなかったのである。
「これは返答をせずに放っておくわけにはいきませんね」彼は、両端に絶え間なくつばの泡が立っている唇をぴちゃぴちゃさせながら、いきり立った。「私はきっと講義を行いますよ!」  我々は、マリネッティへの公的な返答のために一緒に発表することをその場で決定した。私は詩と造形芸術に関して論争することを引き受け、一方彼は――音楽の分野を引き受けることになったのだ。西欧を「包囲する」ことが必要であったため、その直前に自身の三か国語のポスターを発行していた我々は、自分たちにはこれをイタリアの客人が出発するよりも前にやらなければならないとみなしたのであった。


底本:Лившиц Б. Полутораглазый стрелец: Стихотворения. Переводы. Воспоминания. Л., 1989.