Б.リーフシツ『一個半眼の射手』
第七章 我々と西欧
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 嵐のような拍手喝采に終わった講義から退出しながら、私が考えていたのは、シンタクスの破壊についてではなく、いくつかの品詞の廃止についてでもなく、「自由態の言葉」についてでもなかった……。伝統的な語結合へのこれらの戦闘的な襲撃は、おそらく、あちら、すなわち西欧では、極めて過激主義的だと思われていたのだが、我々にとってはすでに通り抜けられた段階だったのだ……。
 私を夢中にさせたのは別のこと――我々のラディカルな信念や我々の無政府主義的な反抗とはかくも異なっていた、イタリア未来主義の政治的な内幕だった……。この内幕それ自体というよりも、未来主義の二つの変種の比較からひとりでに導き出された結論であった。
 私は歴然たる事実に直面した。我々の(グループのではなく――そんなものは存在しなかった!――我々それぞれの独立した)イデオロギーとマリネッティのそれの著しい不一致にもかかわらず、我々は、同一の形式的=技術的課題の仮定において、そしてある程度は創作の実践においても、イタリア人たちと一致していた。
 事件は三つの方法で解決された。
 第一に、異なる原因が同一の結果を引き起こすということに立脚することができた。これは最も簡単な説明、というよりもむしろ、単に我々の考えを占めていた疑問の回避であった。多少とも規律正しい頭脳の持ち主であれば、なんらかの法則性を確立する希望がまだあるところでは、偶然の介入を拒否するものなのだから。
 第二に、原因と結果のつながりを断つことができた。イデオロギーを決定する要因は、美学の領域では決定的な役割を果たしていないと結論を下すことができるのだ……。それでどうなるだろうか? 我々はマルクシストではなく、用語のフローベール的理解において「純粋」芸術の支持者だったから、我々は、素材の自己充足をあらゆる芸術の唯一本質的な要素であると主張したのだ……。この理論が成り立たぬことの一目で分かる証拠が必要なら、まさにマリネッティの講義が驚くべき論拠となった。誰も、イタリア未来主義のリーダーがしたほどの率直さで、「技術」と「政治」を結び付けはしなかったのだから。
 最後に残ったのは第三の案だ。同一の結果が同一の原因によって引き起こされたと認めること、換言すれば、ロシア未来派は、ナショナリズム、愛国主義などから自由ではないが、この原因を包み隠さず告白していたイタリア人たちとは異なり、我々のところではそうした原因はどこか内奥へ、かすかに探り当てられる深みへと追いやられているということを認めることである。
 未来派は、マリネッティ主義と同じく、完成した世界観ではなかった。反ダイナミズムの偏見として、想像と破壊という伝統的な対置を克服しながら、未来派は、自身の傾向のどんな団結も欲しなかったし、それらの傾向を不動の公式、絶対的な公理に変えることを拒絶した。未来派が何よりも恐れたのは、規範、理論、ドグマだった。未来派は定まることをただ否定的にのみ望んでおり、もし情熱のシステムが存在することの立証に成功したら、その場合にだけ、自らにシステムを認めることに賛成しただろう。ロシア未来派のすべてのテーゼは、その創始者たちの考えによれば、自らの外に目的を置く不変のものとしてではなく、未来主義自身の中で結論づけられる運動の起源として、未来派の創作の指針として受け取られるべきであった。
 それにもかかわらず、我々のもとに(グループ全員に)共通の哲学的、社会学的目標がないことは、この秩序の問題に我々が無関心だということを決して意味しなかった。フレーブニコフのたっての願いで『飼育場』に載せられた「幼いロシアの女の子ミリーツァ、十三歳」の詩を思い出すことは価値のあることだろう。

 わたしは死にたい、
 ロシアの大地に
 わたしは葬られるでしょう!
 フランス語は
 絶対勉強しない!
 ドイツの本は
 見ない……――

そして反対のことを確信するためには、マリネッティの到着に関しての檄文や我々の三か国語のマニフェストを思い出すことは価値あることだろう。
 未来派人は、全員ではないにせよ、その大部分が複雑な恨みを持って西欧と付き合っていて、自らの「東主義」によって来たるべき「スキタイ主義」の先を越していた。スウェーデン教会のホールで私が行った演説は、おそらく、論証の信憑性に欠けていたが、どうしても認めないわけにはいかないことが一つだけあった。私が当時論拠としていた芸術の人種理論は、私の解釈において、かなり示唆的な輪郭を持ち始めていたのだ。
 たしかに、この「東主義」はまったく形而上学的なものであった。フレーブニコフと同様に、私は、東と西という抽象概念を利用し、この相対的なカテゴリーに無条件性という特徴を賦与して、衝突の打開策を、東による西の吸収に見いだした。文化のこれらの二つの極は、地域的特徴を持っていなかった。それらの曖昧さのなかには、はっきりした国家形成の核が欠けていて、また、それらは空間的な境界も欠き、なにか宇宙論的な要素から成り立っていた。
 今、あとになって、この文化の形而上学のなかに、何か主観的で民族主義的な傾向を感じ取ろうとする試みはすべて、歴史的なパースペクティヴをずらすことになるだろう。ツシマのときから、ブリューソフでさえ、第三のローマの宝冠を夢見ることをやめたのだから。それにもかかわらず、私の「自らをアジア人とみなし、ヨーロッパのくびきをかなぐり捨てよ」という呼びかけを気に入った(これは新聞にも注目されたのである)場内の人びとの拍手として爆発した痙攣的な震えが物語っていたのは、「人種」理論のアンチテーゼとして舌足らずに説明された「聾唖の悪魔」たちが、我々の頭の上ですでに呼び交わし始めていたということだった。


底本:Лившиц Б. Полутораглазый стрелец: Стихотворения. Переводы. Воспоминания. Л., 1989.